2012年10月12日

治らないときこそ病気のチャンス

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(今のニンジン)

「歩く心の相談室」にやって来られる、またはぼくから出かけて行って出会うクライアントさんたちの病気は精神分野、なかなか一筋縄ではいかない。その上いくつもの病院やカウンセラーやいろいろな代替療法を経てきたケースが多い。それでもどうしようもないので、といって来られるのである。

ここなら何とかなるかもという期待をもって来られる場合もある。うちはパートナーも含めて、リコネクションやディクシャやEFTなど、一般には聞きなれないあやしげなメニューもあったりするので、そういうものを使えばあるいは、という期待もあるだろう。もちろん知られていなくても役に立つ手法は数多くあるし、だからこそぼくたちもそのなかでいいと確信するものを提供しているのだ。

しかしぼくの相談に来られる方は通院していることが多いので、そういうときにはまず「お医者さんの薬はちゃんと飲んでいますか?」と聞く。何だよこれじゃほかと変わりないじゃん、西洋医学のまわし者かよ、と思われるかもしれない。医者が信用できなくてここに来たのにと。

いちおう名前の前に国家資格がくっついているからというわけではない。ぼくは今すぐそういう毒になる化学新薬はやめなさい、などとは決して言わない。ぼくだって、長年かかって向精神薬や安定剤などを止めたのは、それが良くはないと思っているからだ。しかし物事には、段階やタイミング、手順というものがある。

それを無視して、衝動的に○○は悪くて××がいいからと、飛びつく危険性を良く知っているので、薬はいちおう処方通りに飲みなさいというのである。とくに希死念慮がある場合には、首に縄つけてでもリスクを回避しなければならない。毒でもいいからまず薬を飲んで寝ろ、入院して休んで来たらという場合もある。

病院・医者・薬というと、いちいちネガティブにとらえる人がいる。とりわけ代替療法やスピリチュアル分野にのめり込みがちな人に多い。よほど痛い目に会ったのだろうが、きっと巡り合わせが悪かったのだ。それ以上に、その嫌悪感が心のしこりになり、病気を治させない大きな一因になっている。

毒も薬も心しだいでどうにでもなるのだが、その心が現実からある部分だけを排除するようなこだわりに固まっていると、それ自体が病気という停滞状態を長びかせる。どうかそれはわかってほしいと思う。だからある場合には、今もらっている薬を飲んで休むという、素直な受け入れが必要になってくるのだ。

しかしもちろんそれで終わりではない。そういって言われるままに医者に通い、施設に入所したり相談に行きまくった挙句、楽にならなかったのだから。

クライアントさんに「どうしたら治るんでしょうか?」と問われる。もちろん時と人によるけれど、ぼくはいよいよ年貢の納め時だねというようなことを答えることがある。あれもやりこれも手を付け、はかばかしくなく、進展がない。そのときこそ、何がここまでやって来させたのかを知るいい機会だ。治らないという意味合い(恵み)を知る好機なのだ。

ちょっと極端なことを言う。一回医者に行って薬をもらい、それで治ってしまう人は、ある意味この好機を逃している。ドクターショッピングを重ねてついにいい先生に出会った人も、惜しい、残念だ。どれも、誰それのおかげで、薬のおかげで治ったと思えてしまうので。もちろん病気が治り感謝することは、そこから先の人生を輝かせるにしても。

外側の何ものによっても救われることがなかったとき、それは一種の底打ちであり、年貢の納め時とはこの瞬間だ。救いは外からではなく内から来るのだということをはっきりと知るための。

ここにいたってスピリチュアルに手を出すなら、よりリアリティのある取り組みができるだろう。今は準備運動もせず、いきなり玉石混交のスピリチュアリズムに手を出す人が多いので、容易に依存を起こす。西洋医学でも、東洋医学でも、神秘的な秘儀でも、それらが自分とは離れた外側にあって、それが救ってくれるのだという幻想がある限り、本当に治る(心底救われる)ことは起こらない。

たとえば化学新薬ならいけなくて、エネルギーワークならいいという理由はない。どちらもあなたの外側にあるかぎり依存を起こすだろう。とりわけスピリチュアルな取り組みには依存という自覚が生じにくく、こだわりを強めるというよりたちの悪い病気の方が心配だ。どちらにしろ依存症になればいつも財布は空っぽ、心は不安でたらふくになる。そんなゲームには終わりがない。

さて、年貢とは何か? 「治りたい自分」のことだ。それでは治るのをあきらめたの? そうではなく、治ることにこだわらなくなったのだ。治りたがりを止めて、なにが本当に重要なことかに目を向ける扉が開いたのだ。ここから一歩を踏み出したとき、病気にとってもいいことが起こる。

それが治るということなのか、治らないという結果になるのか、それはわからない。要は、生きているのは病気ではなく、自分自身であり、自分を取り戻すということだから。そうして自分を取り戻したとき、さらに奇跡的なことに「自分の定義」がすっかり変わる。そこからが次の段階だ。

前に言ったように、物事には、段階やタイミング、手順というものがあるので、もちろんいきなりここから入るということはしない。でも、クライアントさんにはいつでも、この扉を開けて欲しいという願いをもって接している。

てなことを了解してもらったうえで歩く心の相談室に来ていただくと、面談は簡潔で済みます。



posted by ダー at 16:30| Comment(4) | TrackBack(0) | 心の日記・精神関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
素晴らしい!!
まったく同感です。
Posted by watanabe kikuo at 2012年10月12日 18:40
いま分かち合っている問題を抱えた仲間に、この記事を読んでもらいました。同じことを言っても多様な表現で聞いた方が、納得が早い場合があります。仲間も、おかげで合点が行ったようです。
仲間とは、12ステップという共通言語があるので、さらに理解が進んだように思います。
話す方も、12ステップという共通言語・概念があると、話しやすいですね。
信太郎
Posted by at 2012年10月13日 22:57
kikuoさん
いつも読んで下さりありがとうございます。
Posted by Dah at 2012年10月14日 23:39
信太郎さん

色々はつながりを作る役割がある信太郎さんだから、できることがあるんだなと最近思います。また、ゆっくり話しましょう。
Posted by Dah at 2012年10月14日 23:40
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