2012年11月06日

オープンハートの時代なのだ。

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(ゆとり家の森で歩く瞑想・11月4日)

 ふつうと違う発想や哲学を持ったりライフスタイルが変わるきっかけとして、それまでのやり方が通用しなくなる、つまり世間一般の常識では太刀打ちできなくなる体験があることが多い。

 たとえば病気をしたとする。病院に行ってもよくならない。西洋医学の限界を感じる。そうして民間療法や東洋医学の門を叩く。スーパーでの買い物を減らし、無農薬や無添加の食品を取り寄せる。医食同源だから食の改善はもちろん大切だ。生活環境を変える。働き方や遊び方を変える。その結果として、またはその過程で人間関係も変わる。ヨガや瞑想に興味を持ち、クラスに通う。スピリチュアルなことを話せる友人が増える。

 こんな経緯で生き方そのものがガラッと変わる人も多い。今の時代は変化のスピードも速いから、親と子の価値観がかなり違うことはふつうだし、ついこの間まで親しかった友人どうしや、夫婦の間だって、いつ考え方にギャップが生まれるかわからない。その結果、関係がぎくしゃくしたり、疎遠になってしまうこともある。

 最近では、原発事故に対する考え方や行動の違いが、親しかった人間関係に亀裂を生じさせる場合が多いと聞く。「原発離婚」などという言葉もあるくらいだ。あくまで一例だが、妻は幼い子どもを守りたい。なるべく放射性物質から遠ざかるために沖縄に疎開する。夫は仕事を離れられないし、公的機関の発表に従えば住んでいる場所の汚染はそれほど深刻ではないと判断して残る。

 妻は原発や放射能に対する勉強会や講演会に行き、そうした場での人間関係が広がっていく。夫は相変わらず職場の関係が中心で、スーパーで買いものをし、ひとり暮らしなので外食や飲みに行くことも多い。こういったなかで、「意識ある」妻と「目覚めていない」夫という図式が出来上がっていく。たとえばの話しだ。

 たいてい変わっていく側のほうが「自分は新しい道を歩んでいる」、「自分のほうが目覚めている」という意識に陥りやすい。「残されたほう」からすると、あいつは変なものにはまっている、洗脳されている、まともじゃない、と思うわけだ。

 どこか憶えがあるだろう、こういうのは。そう、極端な話だが、オウム事件だ。いや、あれは違う、あれは邪悪な連中で、洗脳され異常心理に陥ったケースだから、まったく違う−そうかもしれない。しかしそうとばかりも言えない。肝心なのは、「構造的」にはどちらもよく似通っているという点だ。目覚めた自分対愚昧な大衆。逆から見れば、まともで常識的な自分対洗脳された危険な連中。

 新しい価値観に入っていくとき、だれしも「自分は正しい」感に陥りやすい。もちろん確信を持たなければ、熱心に学ぶことも習熟していくことも不可能だから、正しいと思うことは必要だ。けれど、正しいという意識は、とても微妙なバランスの上に立っている。一方に正しいを載せ、もう一方に間違っているを載せて、計ってしまいやすいからだ。

 計りはどちらかに傾く。自分の友人が、親が、パートナーが、間違っている方に傾いたらどうなるのか? 大変苦しいことになる。あんなに好きだったあの子が原発賛成だって? うちの親は添加物だらけの食事をしてなんとも思わないんだ。しょせん会社は病院へ行けの一点張りさ。瞑想をしてますなんてマブダチには言えねえよ。こういうことでぎくしゃくしたり、関係が壊れて行くことは、いまや無いほうが不思議なくらい多い。

 それでは、いっそのこと新しい考えなんて、人と違ったことなんて一切締め出して、付和雷同でお気楽に生きた方がいいのだろうか? 新しいことに踏み出す意味はあるのだろうか? と自問すれば、やむに止まれぬ気持ちからでたことだから、止めようがなかったんだと思うだろう。人との間に抵抗感が生まれてもやりたいと思うこと自体、よっぽど強い動機があるからだ。

 何のための挑戦・開拓・新境地・試みなのか? そして、突き進んだ結果が、結果的に親子の断絶、離婚、友人との絶交、職場での孤立、地域社会からの絶縁、一般の価値観との不調和だったら? 時代を新しく切り開くものは、つねにまわりから理解されないものなのか?

 確かにそういう時代が長かった。多くの宗教的指導者、発明家、革命家たちは、そうした辛酸をなめたのだ。しかし、オウム事件は時代が大きく変わったことを示した。ひとりの天才が世界を変えうる時代は終わったと。それが起こるとしても、大変危険な賭けで、いつどう転ぶかわからない博打のようなものなのだ。

 何か新しいことに進んでいくとき、肝心なのは、それまで親しかった人たちとの関係がどう変化していくか、そのことに意識的であることだ。どうしても、別々の道を歩んだ方がいいこともあるだろう。違いを理解し合いながら、付き合い続けられる場合もある。

要は関係性が変わらないことではない。もし変わっていくにしても、そこにお互いの納得があり、できればその後も気持ちよく付き合って行けるかどうか。それには、とくに新しい方向に踏み出す側の人間が、他の人たち(自分と同じか違うかに関わらず)の平安・幸せを願いながら自分の歩みを進められるかどうか、これが欠かせない条件になる。

 言葉を変えれば、考えや立場の違いを超えて、あらゆるものに等しく祈りを向けるということ。それができれば、思いが変わり、言葉が変わり、行動が変わる。それまでの関係も、決して悪い終わりかたはしない。

 アメリカ大統領が湾岸戦争のとき、イラクの悪党をやっつけられるようにお守りくださいと祈ったというとんでもない話があるが、もちろん神はそんな祈りは受けつけない。「汝の敵を愛せよ」という言葉が聖書にあるが、ふつうの意識では無理だろう。敵味方という分離は存在しない、敵と思うのは心の中に分離があるからだ、という気づきがあれば、その祈りは自然なものになる。

 最後にまた原発のことに戻るけれど、総理大臣や電力会社を憎みながら社会を良く変えることは不可能だ。今までだってできなかったし、これからだってできない。新しい社会は分離意識から変わることはない。一握りの「目覚めた」自分たちが、遅れた人たちを教え導くという図式は、とっくに崩壊しているからだ。

 さらに言えば、宇宙はもともとそういうふうにできてはいない。うまく行ったように見えたことも、変わったという夢を見ていたのに過ぎない。人間の精神史に置いて、エゴの愚かさは何も変わってはいない。

 ぼくらは、同時に目覚めて行く。誰ひとりとして置いていかれることはない。後先もない。恩寵に取りこぼしはなく、敵も味方も、生も死も、善も悪も、すべては同時に救われていく。今起こっている変化というのは、それほどダイナミックだ。その胎動が感じられるなら、もはや憎しみというのがいかに非効率な障害かがわかるだろう。




posted by ダー at 00:23| Comment(2) | TrackBack(0) | そのほかZattaなエッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
素晴らしい!!
Posted by watanabe kikuo at 2012年11月06日 07:55
キクオさん

いつもいつも、ありがとう!
Posted by Dah at 2012年11月07日 00:05
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